昨夜の嵐のような風が治まり、見事に晴れ渡った朝。富士山がくっきりと美しく大きく見える。やはり富士山はいいなと思う。「あじ」のある山だ。
ジュエリー制作を教わっている頃、ある時、その当時の私には荷が重いかという仕事を渡された。幾何学的でない対象形でない造形もので、仕事を渡しながら「あじが無くちゃいけないんだぞ」と念を押された。「あじ」?・・何だろうと思いながらも説明を求めなかったのは、おそらく正解だっただろうと今にして思う。説明しようと思えば思うほど嘘臭いものに姿を変えてしまう言葉というものがある。「あじ」は正にその類いの言葉だ。
何だろうと思い、どうしたかと言えばただ「あじ」という言葉を感じ続け味わい続けた。解らないことは疑問符を付けたまま頭の中において、気にするようにしている。いつか解るようになることを知っているからだ。そういう場面では、色々な業種で仕事をしてきた自分の経験が役立っていたと言えるかも知れない。
言葉面で「味」「味わい」というのは誰でも知っている。だがそれを説明するには言葉では足りない。言葉は単なる道具だから完全ではない。そのものではないのだ。いくら言葉を尽くしても、そのものにはなり得ない。
絵画の世界でも富士を描く時、ただそのままを描写する画家は少ない。味のある山だから、画家は自分の中に感じられている「あじ」を映しだそうとする。あるがままの形を崩すことで、よりそのものに近づけようと試みる。面白いものだ。
ジュエリー制作など、人の手で作り出される造形にも同様のことが言える。デザイン画というものが設計図のように寸分違わず描かれていて、そのまま忠実に作れば良いだけのものならCADを使った造形で充分だ。昔から精密な機械部品はそのようにして作られてきたのだ。
ジュエリー制作の面白さはデザインを読み取って、良さを感じ取ること。その良さを形に表すことに有る。「あじが無くちゃいけないんだぞ」は「ただそのまま作ればいいってもんじゃ無いんだぞ」ということだ。「あじ」には完成が存在しない。だから作ることは楽しいのだろう。
