「これ玄関のところに置いとくから」と言った後、「玄関」の意味を子供に聞かれそうだなと思って頭を巡らせたが答えが頭の中にない。どうやら意味も知らずに慣れで使っていた言葉のようだ。広辞苑を引くと「玄妙な道に入る関門」が語源で「禅寺の方丈に入る門」などの意味から転じて一般の建物の入口の意味に使われ始めたらしい。
さて「玄妙な道」とは何ぞやと調べると「玄妙」は「道理や技芸が幽玄で微妙なこと」とある。今ひとつ解らない。「幽玄」は「奥深く微妙で測り知ることができないこと」「味わい深く情趣に富むこと」などと説明されている。つまり「玄妙な道」とは「良く分からないし説明もできないが奥が深そうな道」という意味で良いのだろうか。何やら言葉でうまく説明できない趣のようなものを、曖昧なままで受け入れることが出来る日本人の特性を表していると言えるかも知れない。
言葉で説明できないものを曖昧なままで受け入れるというのは実は大変に優れた特性で、心理学的にも大きな意味を持っている。人間の「気持ち」や「感じ」は言葉で正確に表現することが困難だが、それをそのまま「名前を付けて保存」することが出来ると、分からないものを分からないままで「扱う」ことが出来るようになる。「名前を付けて保存」は臨床心理学的なテクニックの一つで、いつも出てきては困らせた後どこかに消えてしまう「それ」をいつでも自在に呼び出すことができるようにするため「名前をつける」という方法を使う。「ハンドルを付ける」という呼び方をする流派(流派と言って良いのだろうか)も有る。
名前をつけたりハンドルを付けたりした「それ」には取っ掛かりができるから、いつでも呼び出すことが出来る。自分を困らせる存在をわざわざ呼び出したくはないだろうが、呼びださなければ「それ」が何を言いたいのか分からない。いつまでも「それ」に悩まされたくないなら、呼び出してしっかり対話しなければならないのだ。また勝手に出てきて悩ませる「それ」と違って、気持ちを落ち着けて自分で呼び出した「それ」にはじっくりと対峙することが可能だ。このときの「対話」は「感じる」「味わう」という方法で行われる。
自己催眠などの方法でも同様だが、とにかく焦らずにじっくりと構えていることが肝要だ。「それ」は何も語らないかも知れない。雄弁に語るならしっかりと感じ取り味わえばいいし、何も語ろうとしないならそのままそれを静かに感じているだけで良い。「それ」に居場所を与えて許容することが何より大切だからだ。「それ」を自分の意思で呼び出すことに慣れてくると、突然に現れる「それ」をもコントロールすることが出来るようになってくる。そうなればもう、しめたものだ。
このような手法を用いるのに、日本人は欧米人よりも適しているのだという。欧米人が「気持ちを感じ取る」ということを実行できるようになるのには相当の修練が必要だが、日本人は最初から出来る人が多い。種族や生活環境、思想の違いなのだろうが、国際的に見て豊かな国であるにも関わらず日本人の鬱病患者数が最低水準を保っているのと無関係ではないだろう。