
昨日の写真。田園風景とは違う。武蔵村山市の隠れた名所、菖蒲園の現在の写真だ。花はまだこれからというところ。いつも気になっていた、菖蒲が満開の頃には片隅で萎れている黄色の花。黄菖蒲というのだそうだ。普通の菖蒲よりも開花時季が早く、一斉に菖蒲が咲き誇る時期には枯れている。今は緑の陰に、ただひっそりと。これ見よがしに咲く花より、こういう花が美しく感じる時もある。いや、むしろ大輪の華やかな菖蒲が咲く時期を外していち早く咲くのは狡猾か・・と考える私は、どうやら純粋な心情の持ち主ではあらぬようだ。
蓮の花は泥中より出でて泥に染まることなし・・だったかな。仏教で高貴な花とされている所以であると。仏教は人間の苦という身近な現実から生まれ出たもの。身を痛めつける苦行からは何も生まれぬと見極めたブッダが(そのときはまだブッダではないのだが)自然=宇宙と心身を一体にすることで悟り得た境地。釈尊が悟り掴んだものは境地だ。教えではない。その明確ではあるが言葉で表現し得ぬ境地を人に教えるため、その方法として編み出したのが方便という技法だ。偉いなと思う。自分は解って苦から身を離せたのだから、それでいいだろうと。人に教えるためにまたさらに苦悶する・・そしてそれを為してしまうのだから、間違いなくそういう意味で偉人だと思う。
こういう言い方をすると怒られることも多いが、私はブッダという人に興味を持って高校生の頃から原始仏教の解説書など読みあさっていた。ブッダのことが書かれているのは仏典しか無いからだ。読んでいるうちには「そんなこと言わないだろう」などと本に書かれていることに反感を持ったり・・ブッダという人が分かる気になっていたのだ。
苦の原因は執着であると・・まさにその通りだ。何かに固執するから苦が生まれる。だからといって妻や子まで捨て去るのは、やり過ぎではないかと凡人の私は考える。捨て去らねばならぬという思いに、それこそ固執していたのでは、と。そうなのかも知れない。ブッダの妻と子は、その後ブッダの弟子になっている。しかしその(私が思うに)固執は最後まで消えなかったと思う。ブッダは他の弟子達よりも我が子を厳しく扱った。固執が消えていれば同じに扱えただろうと思うのだ。
ブッダほどの人でさえ、そうだったのだ。ましてや自分など、執着が捨てられずに苦しむのは当たり前のことではないか。当たり前なのだと理解した時、苦は苦として感じられないようになる。「そうか、苦しいのは当たり前なんだな」それでいいではないか。
題名を激しく逸脱した内容になってしまった・・ご容赦。



